福島からの便り vol.3 『2011年 東日本大震災の被災地 “5年後の夏”』


 

2011年3月11日に発生した東日本大震災により福島県では最大震度6強の地震を観測しました。沿岸部では大津波が到達し、広範囲に甚大な被害をもたらし、また、福島第一原子力発電所では津波による冷却装置の電源喪失により、水素爆発や原子炉格納容器の水蒸気を外気に逃すベント等により放射性物質が私たちの郷里にばら撒かれ、3月12日の夜には、福島第一原発から半径20km圏内の住民に避難指示が発令されました。

東日本大震災 原発事故から5年 ふくしまは負けない 2011~2016 : 福島民報社 より

東日本大震災 原発事故から5年 ふくしまは負けない 2011~2016 : 福島民報社 より

実際には、当時の風向きや降雨の状況により、福島第一原発から北西の方向に大量の放射性物質が飛散しました。
後に実状の線量により避難区域は再編され、福島第一原発が立地する大熊町と双葉町、北西に隣接する浪江町のほとんどは帰還困難区域に指定され、原則立入が制限されています。その他、居住制限区域や避難指示解除準備区域に指定されている区域もあります。

福島第1原子力発電所の位置

福島第1原子力発電所の位置と視察の経路

私が住んでいる福島市にも放射性物質が到達し、場所によっては高い値の線量が観測されました。特に子供を抱えている住民の中には県外に避難された方もいますが、現在は除染作業も進み、見た目には日常の生活が流れています。
あれから5年が経ち、福島市で生活しているとなかなか見えてこない福島県の沿岸部を、現在どの様になっているか実際に視に行き、“5年後の夏”をお伝えしたいと思いました。

震災からちょうど5年5か月が経過した「山の日」の祭日を利用して、南から楢葉町→富岡町→大熊町・双葉町と福島第一原発に近い地域を視て、それから相馬市へと北上してきました。

楢葉町

楢葉町は旧警戒区域の福島第一原発から20km圏内に位置しながら、福島第一原発から南に位置するため比較的線量が低く、現在は避難指示区域外となり、通常の生活を営むことができます。

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太平洋を目の前に臨める場所に来てみましたが、除染で出た汚染ゴミがうず高く積み上げられていました。

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その場所から反対側を臨むと、こちらにも汚染ゴミの仮置き場が広がっていました。ここは、津波の被害にあった耕作放棄地だと思われます。

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先程の場所から海岸を背に西へ車を走らせると、津波の高さを示す看板に出会いました。
看板の一番下の白いラインが津波の高さです。私の乗用車と同じくらいの高さです。
この辺りは一面海水に浸かったのだと想像すると、とても怖くなります。

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さらに西へと車を走らせると、津波の到達地点を示す看板に出会いました。
海岸からおおよそ1km離れた場所です。
未来の住民が津波の被害にあわないように、津波の被害を記憶に残すとても大切な看板だと思いました。

富岡町

次に訪れたのは、富岡町です。
富岡町は、福島第一原発のある大熊町の南側に接しています。富岡町は全てが避難区域に指定されており、福島第一原発に近い一部の地域は帰還困難区域となっており、現在も立ち入りが制限されています。
今回訪れた富岡駅は、その中でも比較的放射線量が低い避難指示解除準備地域に指定されています。

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富岡駅は眼下に太平洋を臨む場所に有り、津波の被害を受けてしまいました。
この場所は、津波によりプラットホームだけになってしまった富岡駅の現状です。
JR常磐線は現在この区間は不通となっており、平成32年に向けて復旧工事をしているようです。

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プラットホーム以外に駅近辺に残されていたのは、駅の利用者が使っていた駐車場の跡だけでした。また、後に設置された放射線量を測定するモニタリングポストがありました。
数値は0.202μ㏜(マイクロシーベルト)でした。
モニタリングポストは福島県内の各所に設置されており、福島市でも見ることができます。

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これは、無くなってしまった駅舎と駅前の様子です。手前の建物がかろうじて残っていますが、一階部分が破損しており、津波の高さをうかがい知ることができます。

大熊町・双葉町

次に、福島第一原発のある大熊町と双葉町へと向かいました。
大熊町と双葉町のほとんどが帰還困難区域に指定されています。
帰還困難区域は原則立入が制限されていますが、現在は除染が済んでいる国道6号線と常磐自動車道の通過は可能です。

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今回は国道6号線を通過してきました。
国道6号線に接続している道路や家屋、店舗の入り口などにはこのようにバリケードが設置されており、立入の制限がされています。所々に警察官も立っています。

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5年前から時間が止まってしまった国道6号線沿線の様子です。
建物や看板は朽ち、雑草が生い茂っています。

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国道6号線から福島第一原発を撮った写真です。
手前に広がる原野は、5年間放置され荒れ果ててしまった田畑です。
無情な時間だけが流れています。

相馬市

最後に訪れたのは、福島県沿岸の北部に位置する相馬市です。
福島市民の私にとっては、海水浴や海釣りなど、子供のころからとても馴染みのある場所です。

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相馬市には松川浦という天然の入り江があり、良好な漁場であるとともに、外海からの潮を守ってくれる穏やかな港湾にもなっています。

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水平線上に見える白いラインは津波の後に築かれた堤防です。以前ここには砂州があり、松川浦を潮から守っていましたが、津波はここを乗り越え砂州を押し流してしまい、一時外海と繋がってしましました。

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最後に、子供のころから何度も訪れた原釜尾浜海水浴場を訪れました。
震災前はこの時期になると海の家が立ち並び、海水浴客で賑わっていましたが、現在はその面影は全くなくなっていました。

震災以前の海水浴場の様子 - 相馬市 ホームページより

震災以前の原釜尾浜海水浴場の様子 - 相馬市 ホームページより

最後に

東日本大震災から5年が経ち、福島県の沿岸部は防潮堤(美観の問題はありますが・・・)や港湾等、復興が進んでいる場所もありますが、福島県には原発事故という特別な災害により、何にも手が付けられずに時間が止まってしまった場所もあります。
こうして意識して沿岸部の方にも訪れないと、正直なところ、同じ福島県に住みながらこちらの被災地の事を考えている時間はあまりありません。これからもこうして時々復興の状況を視に行き、少しでもこの震災について考える時間をつくりたいと思います。
この便りを読まれた方も、少しの時間でかまわないので、「フクシマ」を考えていただけたらと思います。


saitohirofumi@kkj齋藤史博(さいとう ふみひろ)

1973年福島県福島市に生まれる
1997年に新潟大学工学部建設学科卒業後、組織事務所を経て2006年に「さいとう建築工房」を設立。
無理をしない、素直な家づくりを目指して地元福島で頑張っています。
2013年に“かわまた「結の家」”にて、第6回JIA東北住宅大賞2012「優秀賞」、第8回木の建築賞「木の建築賞」を受賞。

■バックナンバー
福島からの便り Vol.1
福島からの便り Vol.2