昔から厳しい土佐の夏
土佐はカサブランカと同じ緯度で、射るような日差しですし、台風が太平洋から直撃する土地です。台風と言っても、山越えの風しか吹いてこない土地とは違い、下から降ると言われてきた激しい風雨にさらされます。梅雨時にはあらゆるものをカビさせそうな蒸せるような高い湿度に見舞われます。
それに加えて、100年に一度とされる、トラフ型の巨大地震とそれに伴う大津浪が予想され、災害列島と言われる日本の中でも格別に荒っぽい風土と言うことができましょう。西日本でも一、二を争う高い石鎚山と剣山を含む四国山地の南側の土佐は、交通の便も昔は海からが中心で、遠流の国でした。
高い山の南側は雨が多く樹がよく育ち、高知県の森林率は84%で全国一位になっています。海の幸、山の幸の国で、平地は少なく、高知城と城下町の高知市の中心部は、そこを流れる鏡川の河内(こうち)に立地しています。県人口の半分を占める県庁所在都市でありながら、何年かに一度、床上浸水を経験し、次の大津浪でも静かに何ヶ月も水没すると予想されています。
昔からの土佐の家づくり
このような危ない土地柄に、我々土佐人は仕事と住まいを営々と組み立ててきました。伝統の家づくりは、高い床、低い棟、深い軒、分棟型で小さい急勾配(5寸)の屋根、外壁は土佐漆喰の白とスギ板壁の黒、開口部はダブルスキンの建具で、雨戸の裏側に敷居の下から風圧を入れて内外を等圧にするなど、100年を越える伝統の家々があちこちに残り、荒い気象への対応の知恵を今に伝えています。
昔からの様式と新しい木の扱い方
100年以上の寿命を保って使われている家々には、荒い風土に対応する知恵が込められています。客間など表座敷まわりの柱や長押などの造作は、一般にツガなど(ヒノキは藩政期禁止されていた)の柾目材が使われることが多く、無地の天井板と共に格式を表していましたが、戦中戦後の過伐で、このような「役もの」と言われる木材は高知でも高価になり庶民のものではなくなりました。
合板にプリントするなど、新建材の時代に入りますが、当然プリントは時と共にインクが薄れ、合板の接着剤は空気を汚し、透湿性がないので高い湿度のもとではカビとダニを呼ぶような、更にはローンが終わる頃にはゴミになって処理費の負担が大きな建材と言うことで、堅実な庶民にはお勧めできるものではありませんでした。
そこで我々(※注)が採った方法は、納屋や蔵や土間部分など、住宅の作業空間の荒い一等材や、丸身、曲り材を使って力強い空間を作る伝統を、居室や表座敷の格式部分にも使うようなデザインでした。丁度、ジーパンを履いてパーティーに出席しても許されるような時代背景になっていたことも幸せなことでした。
その土地の木材はその土地の菌や虫に抵抗する成分を持っていると言われています。スギ・ヒノキは自然乾燥させて使うことにこだわると、10年経っても木の好ましい香りを失わず、訪問客が褒めてくれる家になります。伝統の木組みの細工を守っていれば、やがて解体して移築することもできます。古い素朴な構造材が骨董品にまでなることを願っています。
土佐漆喰は雨に強い
強い風雨にさらされながら100年白さを保ち、土佐の家並みを特徴付ける壁材に「土佐漆喰」があります。左官仕事では「水ゴネ10年、糊ゴネ1年」という言い回しがあります。
土や漆喰にツノマタなどの糊材を入れると、10年掛かる左官の修行が1年で済むようになるという意味で、日本中の漆喰の外壁仕事が皆、ツノマタを入れるようになったようですが、伝統的に沖縄と土佐の漆喰だけは水ゴネが生き残っていて、風雨に対する耐久性を伝えてきています。
土佐漆喰は水ゴネであるほか、スサに醗酵させた稲藁を使うので、塗りたての時は少しオフホワイトの素朴な漆喰です。小舞土壁を下地にした「土佐漆喰」塗りは、熱容量も大きく、住まいの温湿度環境の安定に寄与するところが大きく、骨太の木材の調湿能力(年間で含水率の変動は表面から58ミリにまで及ぶようです)とともに、雨漏りや水没に耐え、機械に頼らなくても高い湿度環境を住みやすいものにしてくれる主役になっています。
※注「土佐派の家」土佐派の家PARTⅢなど参照
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高知からの便り 特派員
山本長水(やまもと ひさみ)
略歴
1936年 高知県生まれ
1959年 日本大学工学部建築学科卒業
1959年 (株)市浦建築設計事務所ほか勤務
1966年〜山本長水建築設計事務所開設・主宰
2001年〜高知工科大学客員教授
1999年 日本建築学会賞(作品)県立中芸高校格技場
〃 作品選奨 (株)相愛本社
著書 土佐派の家PARTⅢ
★バックナンバーを読む
・高知からの便りvol.1『土佐の夏の住まい』
・高知からの便りvol.2『土佐の冬の住まい』